ペロポネソス戦争は、紀元前431年から紀元前404年にかけてギリシャ諸都市国家間で行われた大規模な戦争である。この戦争のきっかけとなった一つの事件が、「シュボタの海戦」である。シュボタの海戦とは何か、その経緯と影響について調べた結果を以下にまとめていく。
シュボタの海戦は、紀元前433年、コリントとその植民市ケルキュラの間での紛争の一環として発生した。ケルキュラはコリントからの独立を目指しており、アテネの支援を受けていた。一方、コリントはスパルタと同盟を結び、ケルキュラに対する影響力を維持しようとしていた。この対立がシュボタ近海での軍事衝突に発展した。
コリントとケルキュラの間で緊張が高まる中、コリントは150隻の大規模な艦隊を編成し、ケルキュラに対抗しようとした。ケルキュラは110隻の艦隊を組織し、アテネにも支援を求めた。アテネは10隻の船を派遣し、ケルキュラと連合艦隊を結成した。
シュボタ近海での海戦では、両軍が激突した。当初、アテネの艦隊は積極的に戦闘には参加せず、コリント軍が上陸を試みた場合にのみ介入するよう指示されていた。戦闘は接近戦で行われ、双方の船は相手の船に乗り込んで戦う、いわゆる「古風な」戦い方だった。
ケルキュラ艦隊の左翼はコリント艦隊の右翼を押し返し、コリント軍の陣地を焼き払った。しかし、コリント艦隊の左翼は優勢で、ケルキュラ艦隊の中央と右側を攻撃した。この段階でアテネの艦隊が介入し、ケルキュラを援護したが、戦況を完全に覆すことはできなかった。
結局、戦術的にはコリント軍が勝利したものの、アテネの追加の援軍が到着したため、コリント艦隊は撤退を余儀なくされた。戦闘後、両軍ともに自分たちが勝利したと主張したが、ケルキュラはコリント軍の上陸を防いだことで、一定の成果を上げたとされている。
シュボタの海戦は、軍事的には決定的な勝敗がつかなかったが、政治的には大きな影響を及ぼした。この海戦を通じて、アテネとスパルタの同盟国であるコリントとの対立が一層深まった。特に、アテネがケルキュラを支援したことで、スパルタとその同盟国の間でアテネへの警戒感が高まり、ギリシャ全体の緊張が増幅した。
シュボタの海戦後、コリントとスパルタはアテネに対する敵対姿勢を強めた。これに対し、アテネはさらに積極的な拡張政策を展開し、メガラの封鎖などの措置を講じた。このような一連の出来事が、最終的にペロポネソス戦争の勃発へとつながった。